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スタッフ紹介

教員・研究員

>リサーチ・コーディネータ(RC)と事務職員

自己紹介を兼ねて、「子どものころの親の思い出」について書いてみました。

中山 健夫(なかやま たけお)
京都大学大学院 医学研究科 社会健康医学系専攻健康情報学分野 教授
エコチル調査京都ユニットセンター センター長

私の父は内科・小児科の開業医でした。
自宅に白衣の父が普通に居る生活で、昭和40年頃(50年前ですね)は、夜中、子どもの急患の泣き声でよく私も目が覚めました。 母は、いつも私を心配してくれていました。子どもの頃は、それをうっとうしいようにすら思いましたが、ようやく、その有難さが分かってきたように感じています。

小西 行郎(こにし ゆくお)
同志社大学 赤ちゃん学研究センター 教授
エコチル調査京都ユニットセンター 副センター長
小児科医

子供の頃、自分の時間のほとんどは母親によって占められていたように思う。小学校から大学入学までの思い出には、いつも母親が登場する。教育ママのはしりだったかもしれないが、家庭教師や様々な教室に通わされ、小学校の編入試験や中学受験にチャレンジさせられ、ことごとく失敗した。しかし、それはトラウマにはならなかった。失敗しても失敗しても自分を信頼してくれた母がいたからだと思っている。失敗するのが当たり前、またチャレンジすれば良いと思えるようになったのは、その後の自分の人生に大きな影響を与えてくれたようである。

呉 東進 (ごう とうしん)
京都大学大学院 医学研究科 エコチル調査京都ユニットセンター 特定教授
小児科医

子どもの頃の親の思い出といっても、今となってはあまり浮かんできません。自分の子どもがもっと小さかった頃には、自分との比較でいろいろ考えることもあったと思います。頭の中をいろいろ探してみて、ようやく出てきたのは、よく妹の子守や留守番をさせられて、まだかまだかと思ったり、不安になったりした当時の心境のことでした。
日本では、両親が出かける時にベビーシッターを頼むという習慣が今でも少ないような気がします。皆さんも、子どもだけを家に残しておくということのないように、お気を付けください。国によっては、それだけで虐待にあたるところもありますので、なおさらです。

渡部 基信(わたなべ もとのぶ)
同志社大学 赤ちゃん学研究センター 研究員
学研都市病院医師
小児科医、臨床心理士

基本的には親に感謝しています。でも、つらい思い出ばかり。
朝食の最中、大人の手のひらサイズのアシタカグモ出現。
「あんた男やろ。長男が捕まえんでどうする!」家族全員5メートルも離れて避難してるのに、なぜ僕だけ・・・勿論やっつけてやりましたとも!
ティッシュ1枚で。大人になって虫嫌いになったのはそのせいかも。
夏休みのラジオ体操。
なんか保育園の妹も参加することに。「お兄ちゃんが連れていきな」というわけで連れて行ったのはいいけど、案の定、上級生やら同級生から「保育園なんてあかんに決まってるやろ!」「あほか!小学生だけしかあかんやろ」
小学2年生の自分には逆らうことできず、妹に「…お前帰れや」うえーんと泣いて妹は帰りました。
その3分後でした。妹の手をひいて鬼がやってきたのは。
「お前それでも兄ちゃんか!」「あんたら、保育園の子1人仲間にしてやれんのか!」
お陰で長いものには巻かれる的な?立派な大人になりました。

金谷 久美子 (かなたに くみこ)
京都大学大学院 医学研究科 社会健康医学系専攻 健康情報学分野 研究員
内科医

忙しかった父ですが、時折、とびきりの笑顔で遊んでくれました。
父が仰向けになって両脚を上げ、上で私が腹這いになって「ひこうき」。
本気で、私が勝つまで何時間も続けてくれた「オセロ」。
そんなことが忘れられません。

平林 今日子(ひらばやし きょうこ)
京都大学大学院 医学研究科 エコチル調査京都ユニットセンター 特定助教
社会学

子どもの頃、住んでいた社宅の隣が私たちきょうだいの通う小学校でした。ほとんど我が家の庭のような感覚で、放課後も長期休暇中も、毎日のように校庭で遊んでいました。毎年秋の運動会には、その校庭で母の手作りのお弁当を囲み、家族や近隣の方々と一緒にお昼ごはんを食べるのがとても楽しみでした。お正月には父と凧を揚げ、寒空の下、からまったタコ糸を半日かけてほどいたことも。
記憶の中にある両親は、そうした機会を一緒に思いきり楽しんでくれていて、子ども心にそのことがとても嬉しかったのを覚えています。
自分もあの頃の両親のように、我が子と一緒に楽しみながら日々を過ごしていきたいです。

森田 理仁(もりた まさひと)
京都大学大学院 医学研究科 エコチル調査京都ユニットセンター 研究員
生物学・人類学

スポーツ観戦といえば、今ではサッカーが好きですが、子どもの頃はもっぱら野球でした。小学生の時、父親には甲子園に、母親には大阪ドームに連れて行ってもらいました。試合のことはもちろん、移動の電車の中でのことや、駅から歩きながら見た景色、球場の売店のことまでよく覚えています。ファンだったオリックスには、当時まだイチロー選手が在籍していました。あれから20年近く経っても、第一線で活躍され続けているのは、本当に凄いことですね。大人になった今、こんなことも思いながら懐かしく振り返りました。

教員・研究員

>リサーチ・コーディネータ(RC)と事務職員

自己紹介を兼ねて、「子どものころの親の思い出」について書いてみました。

中山 健夫(なかやま たけお)
京都大学大学院 医学研究科 社会健康医学系専攻健康情報学分野 教授
エコチル調査京都ユニットセンター センター長

私の父は内科・小児科の開業医でした。
自宅に白衣の父が普通に居る生活で、昭和40年頃(50年前ですね)は、夜中、子どもの急患の泣き声でよく私も目が覚めました。 母は、いつも私を心配してくれていました。子どもの頃は、それをうっとうしいようにすら思いましたが、ようやく、その有難さが分かってきたように感じています。

小西 行郎(こにし ゆくお)
同志社大学 赤ちゃん学研究センター 教授
エコチル調査京都ユニットセンター 副センター長
小児科医

子供の頃、自分の時間のほとんどは母親によって占められていたように思う。小学校から大学入学までの思い出には、いつも母親が登場する。教育ママのはしりだったかもしれないが、家庭教師や様々な教室に通わされ、小学校の編入試験や中学受験にチャレンジさせられ、ことごとく失敗した。しかし、それはトラウマにはならなかった。失敗しても失敗しても自分を信頼してくれた母がいたからだと思っている。失敗するのが当たり前、またチャレンジすれば良いと思えるようになったのは、その後の自分の人生に大きな影響を与えてくれたようである。

呉 東進 (ごう とうしん)
京都大学大学院 医学研究科 エコチル調査京都ユニットセンター 特定教授
小児科医

子どもの頃の親の思い出といっても、今となってはあまり浮かんできません。自分の子どもがもっと小さかった頃には、自分との比較でいろいろ考えることもあったと思います。頭の中をいろいろ探してみて、ようやく出てきたのは、よく妹の子守や留守番をさせられて、まだかまだかと思ったり、不安になったりした当時の心境のことでした。
日本では、両親が出かける時にベビーシッターを頼むという習慣が今でも少ないような気がします。皆さんも、子どもだけを家に残しておくということのないように、お気を付けください。国によっては、それだけで虐待にあたるところもありますので、なおさらです。

渡部 基信(わたなべ もとのぶ)
同志社大学 赤ちゃん学研究センター 研究員
学研都市病院医師
小児科医、臨床心理士

基本的には親に感謝しています。でも、つらい思い出ばかり。
朝食の最中、大人の手のひらサイズのアシタカグモ出現。
「あんた男やろ。長男が捕まえんでどうする!」家族全員5メートルも離れて避難してるのに、なぜ僕だけ・・・勿論やっつけてやりましたとも!
ティッシュ1枚で。大人になって虫嫌いになったのはそのせいかも。
夏休みのラジオ体操。
なんか保育園の妹も参加することに。「お兄ちゃんが連れていきな」というわけで連れて行ったのはいいけど、案の定、上級生やら同級生から「保育園なんてあかんに決まってるやろ!」「あほか!小学生だけしかあかんやろ」
小学2年生の自分には逆らうことできず、妹に「…お前帰れや」うえーんと泣いて妹は帰りました。
その3分後でした。妹の手をひいて鬼がやってきたのは。
「お前それでも兄ちゃんか!」「あんたら、保育園の子1人仲間にしてやれんのか!」
お陰で長いものには巻かれる的な?立派な大人になりました。

金谷 久美子 (かなたに くみこ)
京都大学大学院 医学研究科 社会健康医学系専攻 健康情報学分野 研究員
内科医

忙しかった父ですが、時折、とびきりの笑顔で遊んでくれました。
父が仰向けになって両脚を上げ、上で私が腹這いになって「ひこうき」。
本気で、私が勝つまで何時間も続けてくれた「オセロ」。
そんなことが忘れられません。

平林 今日子(ひらばやし きょうこ)
京都大学大学院 医学研究科 エコチル調査京都ユニットセンター 特定助教
社会学

子どもの頃、住んでいた社宅の隣が私たちきょうだいの通う小学校でした。ほとんど我が家の庭のような感覚で、放課後も長期休暇中も、毎日のように校庭で遊んでいました。毎年秋の運動会には、その校庭で母の手作りのお弁当を囲み、家族や近隣の方々と一緒にお昼ごはんを食べるのがとても楽しみでした。お正月には父と凧を揚げ、寒空の下、からまったタコ糸を半日かけてほどいたことも。
記憶の中にある両親は、そうした機会を一緒に思いきり楽しんでくれていて、子ども心にそのことがとても嬉しかったのを覚えています。
自分もあの頃の両親のように、我が子と一緒に楽しみながら日々を過ごしていきたいです。

森田 理仁(もりた まさひと)
京都大学大学院 医学研究科 エコチル調査京都ユニットセンター 研究員
生物学・人類学

スポーツ観戦といえば、今ではサッカーが好きですが、子どもの頃はもっぱら野球でした。小学生の時、父親には甲子園に、母親には大阪ドームに連れて行ってもらいました。試合のことはもちろん、移動の電車の中でのことや、駅から歩きながら見た景色、球場の売店のことまでよく覚えています。ファンだったオリックスには、当時まだイチロー選手が在籍していました。あれから20年近く経っても、第一線で活躍され続けているのは、本当に凄いことですね。大人になった今、こんなことも思いながら懐かしく振り返りました。

リサーチ・コーディネータ(RC)と事務職員

>教員・研究員

自己紹介を兼ねて、「子どものころの親の思い出」について書いてみました。

京大オフィス

三ツ野 さゆり (主任)

私の年齢が、私の記憶にある両親の年齢(30歳過ぎ?)を超えたころから、今の自分と当時の両親とを重ね合わせて、両親のことを考えられるようになりました。当時と今では時代や環境の違いもありますが、宇宙人のように不可解な存在だったこともある両親に、共感さえも覚えることがあります。記憶の中にある両親の姿がお手本になってくれています。今までもこれからも感謝です。

今井 ひろみ

小学生だったころの両親の年を自分がはるかに超えてしまい、小学生だったのはもう半世紀ぐらい前の話になってしまいました。我が家には私が小学2年生まで寝たきりの祖父がおり、その後3年生になって弟が生まれました。大変だった介護の後に久しぶりの赤ちゃんに恵まれ、両親ともにそれはそれはかわいがりました。赤ちゃんはかわいかったけれど、それまで下の子として甘えていた私はやきもちを焼いてすねていました。もう小学生だったのに、みんなの目が弟に注がれて淋しかったあのころの気持ちを、昨日のことのように思い出します。

上野 由紀

叱られた記憶がないほど、母は優しくポジティブな人でした。ほうれん草やにんじん入りの、緑や橙色のドーナツをよく作ってくれたのを覚えています。あのころの母の年齢をとうに越しているのに、なかなか近づけないものですね。「おかしいな 母の遺伝子 ハテいずこ?」

小川 直美

父の誕生日には母が手作りのおはぎをたくさん作ってくれて、家族でお祝いしました。小豆をたっぷり使った大きめのおはぎをみんなでいただくことが毎年楽しみで、自分の誕生日より思い出深いです。

奥田 美千代

真っ先に思い出すのは、毎年恒例の泊まりがけで行く海水浴。水泳が得意な父から、みっちり教え込まれ、素潜りにはまりました。今でも水の中が大好きです。一時期、本気で海女さんになりたいと思っていました。

奥堀 真由美

子どものころの記憶として残っているのは、父親と遊んでいる場面です。家の隣の空き地で3歳下の妹と一緒に野球ごっこをしたり、早朝まだ暗いうちから起き出して山までカブトムシを取りに行ったり、夏には琵琶湖で潜って魚や大きなタニシを捕まえたり、冬には信州までスキーに連れて行ってもらったり・・・。とても楽しかった思い出として今でもはっきり覚えています。

小島 まみ

私が5、6歳くらいのころ。夏休みになると、父は肌着のようなランニングシャツ一枚でフラフラし、昼食後は毎日のようにバイクに乗って碁を打ちに出かけていました。「行かないでほしい。」と私がお願いすると、「今日は行かない。もう止めた。いっしょに昼寝をしよう。」と誘われ、父と一緒にゴザに横になりました。汗びっしょりで目を覚ますと、すでに夕暮れ時で父は横にいませんでした。冷蔵庫から冷えた麦茶を出して飲み、ぼーっとしていると、あっという間に父が戻ってきました。あれ?っと思いながらも、父に抱き付き、いつものように家族で夕食を囲みました。父とのゆるい夏の思い出です。

出口 雅子

最近では三輪の子どもを乗せられる自転車がありますが、私の子どものころは簡易な子ども椅子しかありませんでした。幼いころ買い物の度、母の自転車の後ろに乗っておりました。ある日おばあさんをよけようとしてバランスを崩した母は、とっさに自転車を飛び降り、荷台の私は自転車と共に転倒し擦り傷を作ることとなりました。それ以来、自転車は自分で乗るものと必死で練習し、母の自転車の後ろには乗らないと心に決めました。

原山 裕子

釣りが好きな父が釣ってきたウナギが、たまに食卓に上がりました。脂ののった天然物のウナギはとてもおいしくて、私は大好きでした。父は「もっと食べるか?」と私のごはんの上に父の分のウナギを乗せてくれました。そのころは「お父ちゃん、ウナギ、嫌いなんかな?」と思っていました。このエピソードはずっと思い出すこともなかったのですが、親になった後ふとした時に思い出し、父の愛だったと悟りました。


長浜オフィス

川邉 佳澄

私の子どものころの両親との思い出は「家族旅行」です。うちの両親はどこまでも車で旅行するタイプでした。眠たいのに午前3時頃に起こされて車に乗り、私や弟が寝ている間に移動・目的地到着という感じでした。そういう私も家族旅行は車で旅行するタイプになっちゃいました。でも、さすがに午前3時には起きませんが・・・。そういう所も親に似るんですね。

久保 和美

小さなころ、お昼寝をして目が覚めたとき、母がいないと大泣きしながら家中を探し回るような母っ子でした。とても器用な母で、セーターはいつも手編み、ワンピースも手作りの物を着せてくれました。

高岸 由紀子

私の好きなおかずがあると、自分の分も「食べていいよ」と出してくれる母。自分の好きなお菓子があると、私の分も食べてしまう父。母に怒られてから「父さんはいいから、みんな食べなさい」と急にかっこつける父。「なんじゃそれ!」とあきれて突っ込む母。旅行や誕生日など特別な思い出も数知れませんが、こんなくだらない日常こそ楽しく幸せな思い出です。

中嶋 優季

3歳くらいのころのことです。私と母が乗っていたボートに父が飛び移ろうとして、石垣のようなところからジャンプしました。そして父はそのまま池に落ち、ずぶぬれになりました。今も変わらずお茶目な父ですが、昔はやることが今より豪快でした。

松岡 恵美子

2~3歳のころ、私は絵本の「保護者の方へ」といった注釈や奥付まで、「ママだけずるい!ここも読んで!」とせがんでは母を困らせる子どもでした。辛抱強く付き合ってくれた母のおかげでしょうか。今も読書は私の楽しみのひとつです。


同志社大学サブユニットセンター(木津川オフィス)

小西 かおり

お酒が大好き、それが原因で時々失敗をする父のことを、子どものころからいやだと思ったことがなく、私が思春期になっても父のやんちゃぶりは変わりませんでしたが、お酒を飲んで機嫌のよい父と世間話をする時間が好きでした。今思うと、いつも母がそんな父のことを、子どもの前では上手に良い父親に仕立てていたように思います。 

秋山 由美

商売をしていた両親は、日曜以外はお盆とお正月しか休まなかった。父は大概、大晦日のゆく年くる年のその年のメインの鐘が鳴るころに仕事納めから戻った。そんな父は、年越しをすると年越しそばをすすりながら「初詣行こか?」と誘い、初詣に連れて行ってくれた。今から思えば眠かったのかも知れないし、そんな遠出はできなかったけれど、父は毎年違う景色を見せてくれた。一年に一度きりの真夜中のお出かけに妹とワクワク騒いだのが、つい最近のことのように思い出された。

飯尾 都美

私の子どものころは今と違って、親のしつけは叩いて当たり前でした。今でも鮮明に覚えているのは、少し(?)口答えしたときに私が逃げ回り、廊下の端まで母もあきらめずに追いかけてきて叩かれました。子どもながらに、ここまで追いかけてくるかと感心した覚えがあります(笑)。母の名誉のために、もう一つの思い出。駄菓子を一日一日、一回ずつ袋にいれてくれました。今日は何かなと、とても楽しみでした。

東谷 理恵子

今の時代は「ほめて育てる」とよく耳にしますが、私の母は「叱って育てる」人でした。ある日の小学校の参観での出来事。のんびり屋の私は、書道の授業参観で半紙を忘れてきた隣の子に渡す半紙を、一枚、二枚と丁寧に数えていると、後ろで見ていた母が駆け寄って来て、「早く数えて渡してあげなさい。」と叱られてしまいました。母の叱り方がきつかったので、クラスメイトはひくし、担任の先生も「まあまあ、お母さん・・・。」となだめる始末でした。自分の子どもには、ほめて育てるつもりでしたが、叱って育てる毎日で反省しています(笑)。